第1回 産業観光型NBM講座 飛騨・高山-講座概要 (本講座は終了しています)
7月31日(土)・8月1日(日)に飛騨・高山をめぐる産業観光型NBM 講座を開催いたしました。以下のPDFファイルから講座概要をご覧いただけます。
産業観光型NBM 講座「モノづくりと出会う旅」第1回 飛騨・高山 レポート
7月31日(土)・8月1日(日)、産業観光型NBM講座 「モノづくりと出会う旅」の第1回は、モノづくりの盛んな岐阜県、飛騨・高山地方を訪問しました。
良質な木材に恵まれた飛騨では、木工の技術が高く、「飛騨匠(ひだのたくみ)」と称されていましたが、金森氏が伝えた京文化や江戸文化が融合し、建築のみならず、彫刻・塗り物などの工芸品をはじめとする独自の文化を築き上げました。
1日目 7月31日(土)
6時40分集合7時00分新宿発のバスに乗り込みます。
目的地まであと2時間。かなり山深くなってきました。
【蕉水亭(ぶすいてい)へ】
14時頃 飛騨古川町に到着。江戸時代、幕府の直轄領となった面影を残す古い町並みは、どこか懐かしくも優しい風情です。
まずはお昼ご飯と、散策も底々に明治3年から続く創業140年の老舗旅館「蕪水亭」へ向かいます。
蕪水亭は50年前の火災、2004年10月当地を襲った台風23号水害と二度の災害を乗り越え現在に至り、飛騨古川の迎賓館として飛騨の食文化・もてなしの歴史そのものをお届けしています。
謂われは、荒城川(別名:蕪川)と宮川の合流点にあること、また秋には漬物用の「蕪」を洗う水清らかな場ということで名付けられたと伝えられているそうです。
涼しげで地のものを豊富に取り入れたお料理
美人女将の歴史のお話しに興味津々
古民家を移築した建物の内部です。
<蕉水亭> http://www.busuitei.co.jp/
【蒲(かば)酒造場へ】
まずは飛騨古川の町並みを歩いて、蒲酒造場に伺いました。
蒲酒造場は、宝永元年(1704年)に創められ、三百年の永きに渡り、水豊かな米処飛騨古川の地で、連綿と変わることなく酒造りをしている蔵元です。
お酒造りは赤ちゃんを育てるのと同じで、一度仕込み始めれば半年間毎日毎日24時間、杜氏の気の抜ける日はない、と伺いました。夜も2時間おきに様子を見るなど、おいしいお酒作りには暮れもお正月もありません。
この蔵元の酒銘は「白真弓」。
コクがありながら後味すっきり、するすると呑めるお酒です。
由来は【ひだ】にかかる枕詞「しらまゆみ」であり、枕詞の由来は飛騨に檀(まゆみ)の木が自生していたからだろうと言われているそうです。
個人的には白真弓の「生」原酒が”とろり”として美味でした。
冬のしぼりたてから夏まで保管することで、冬の荒々しさが取れ、熟成されて口あたりが丸くなるようです。
今回ご参加の皆様にはお酒がお好きな方も多く、次々とお好みのお酒をお買い上げになりました。お酒に限らずモノづくりの現場では、モノづくりの過程や想いを理解してもらい、さらにはその価値に納得して購入していただくことが、一番嬉しいことだと聞きます。
<蒲酒造場> http://www.yancha.com/
【三嶋和蝋燭店へ】
続いて蒲酒造場からは十数メートルの距離にある三嶋和蝋燭店へ。
明和年間(1764~72)創業で、こちらも240年以上続く、全国でも数少ない「手作り和ろうそく」店です。先ほどから、創業から3桁続くのがお約束のように老舗揃い。さすが天領、歴史の町です。
ろうそくはもともと1000年ほど前に中国から伝えられ、日本人の手技と仏事での使用によって「和蝋燭」として日本中に広まりました。原料は全て植物由来で、櫨(樹木)の実の木蝋と芯に和紙・い草を使います。
三嶋和蝋燭店の三嶋さんは朝から晩まで大小様々な和蝋燭を製作します
すべて手作業のため、作れる数には限りがありますが、それでも、従来の仏事に使う白と赤(朱)の和蝋燭の他、現代の暮らしの中で使うためのマーブル模様の和蝋燭を考案するなど、今も伝統を継承しながら発展させることに余念がありません。
曰く、「日本人はすごい手(技)を持っていた。それを取り戻したいし、私は日本一の手になりたい。」とのこと。
歴史に胡坐をかくことなく、技とモノに磨きをかける姿勢はぜひ見習いたいですし、そういったモノづくりをされている事実を広めたいと強く感じた一時でした。
最近ではすっかり定着してきた夏至と冬至の「100万人のキャンドルナイト」に、煤が出にくく、長く保ち、表情のある炎の揺らめきを楽しめる和蝋燭で参加をしてみてはいかがでしょうか。
<三嶋和蝋燭店> http://www.city.hida.gifu.jp/kanko/takumi/warousoku/mishimaya/
【日進木工へ】
宮大工の流れを組み、天領でもあった飛騨は、高級家具の産地でもあります。
日進木工は、実際に家具作りもできるというハウスデザイナーが全アイテムの約8割をデザインし、自社で一貫した製造を行なう創立65年の家具メーカーです。岐阜の繊維、美濃和紙、美濃焼陶磁器、関の刃物、飛騨の家具のコラボレーションによる、ライフスタイルの提案を積極的に行なっています。
原材料の約6割が国産ナラ材。
露地で1年乾燥させます
飛騨の家具の特徴は、曲げ木。
椅子のアームや背もたれの曲線は、太い木から削り出すのではなく高温の蒸気で曲げているというから驚きです。
また、こういった技術と同時に薄くスライスした木材とアルミを貼り合わせることで家具の軽量化を図るなど、最先端の技術を使った家具作りも行なっています。
日進木工は、特に「脚もの」と分類される椅子やテーブルがお得意ということで、工場内部やショールームでは、美しい曲げ木の脚ものを見ることができました。
最先端技術で出来上がったテーブル
椅子の座面の木材を無くし軽量化
脅威の木ネジ製作技術
座り心地の良いデザインソファを体感
工場内部は企業秘密、で写真はありませんが、機械で加工する部分、椅子の張地や組み立てなど手作業で行う部分、それぞれが効率よく分担され稼動する様子は、網膜に焼きついています。
そして、最低でも樹齢80年~大きいもので200、300年の「木」を扱うメーカーだからこそ、木の端材を使い切る、所有の山への植樹や手入れ(間伐)を欠かさないことを心がけているという言葉が耳と心に残った訪問でした。
もう一軒うかがう予定でした家具メーカー、キタニは、天然素材と手づくりの家具にこだわり、飛騨の家具作りを継承しています。
スケジュールの都合により、今回は訪ねることができませんでしたが、東京でもその家具の展示があるようですので、ぜひ一度足を運んでみたいと思います。
<キタニ> http://www.kitani-g.co.jp/
【洲さきへ~飛騨春慶について】
夕食は、飛騨春慶や渋草焼といった二日目に見学予定の飛騨で作られる器と料理を楽しめる、江戸時代の後期、寛政六年(1794年)創業の料亭「洲さき」でいただきました。
洲さきのお座敷に着いたところで、せっかく飛騨の器でお食事をするのであればと、飛騨春慶について、飛騨春慶連合協同組合の理事長・戸沢幸夫さんと、副理事長の林円隆さんのお話を伺いました。
飛騨春慶とは、飛騨の山々に生える木々を生かした漆器で、最大の特徴は透明な漆「透き漆」を塗ることで木目の美しさを損なわない仕上がりにあります。
江戸時代の初め、宮大工がたまたま打ち割ったサワラの木の美しい木目を発見したことで、美しい枇目(へぎめ)の盆が塗り上げられ、色調が茶器の名品で加藤景正の飛春慶(ひしゅんけい)に似ているところから、春慶塗と名付けられたと伝えられているようです。
職人は木地師と塗師(ぬし、ぬりし)とで分かれており、木地師の中でも、木を曲げて成形する「曲げもの」(弁当箱)、木を組み合わせて形作る「組みもの」(お重)、木を挽いて形を生み出す「挽きもの」(茶托)と、それぞれの得意とするものが異なり、分業体制が整っています。(かっこ中のアイテムは一例)
今では職人の減少と高齢化も進み、一番若い方で木地師・塗師ともに40代という状況ですが、飛騨春慶を買う人が増えることが、職人希望の若者を増やすことにも繋がると考え、お茶道具の棗をアクセサリー入れとして買って帰るヨーロッパの観光客の話しなどを交え協会理事長はその良さや可能性を伝えます。
「『お盆』という『物を運ぶ道具』の名前に囚われず、例えば食卓でプレートとして使うなど、自由な発想で使っていただきたい。また、良いものだからと仕舞い込まずに“ざんざ”(日常)に使うことで、漆の艶は増し、色は琥珀に変化していく。その様を楽しんでいただきたいですね。」
使い込むことが楽しい日本の木工芸品の中でも、きっとうっとりするような風合いを期待できるのが飛騨春慶ではないでしょうか。
【洲さき~夕食】
飛騨春慶のお話を伺った後は、洲さきのお料理をいただきました。
洲さきは、岐阜県で最も古い料亭で、お料理は茶の湯の心をふまえた宗和流本膳の作法(素材選び、味付け、盛り付けなど)を二百年余の間、口伝によって代々伝えています。
今回私たちがいただいたお料理は、宗和流本膳の作法を守るべきものは守りながら、随所に時代ごとの新しい感性をとりいれた「本膳くずし」。
本来は30品ある本膳のお料理を11品に絞り込み、限られた時間でも十分に宗和流本膳を味わえるよう工夫されているそうです。(正式に本膳をいただくには約10時間かかります)
お料理は季節の素材に溢れ、目にもおいしく上品。
また、春慶の器でいただく汁物は口あたりがやさしく、飛騨九谷とも呼ばれた渋草焼に盛り付けられた様は華やかでした。
<洲さき> http://www.ryoutei-susaki.com/
2日目 8月1日(日)
【春慶会館へ】
江戸・明治・大正・昭和の各時代の春慶塗が一同に展示され、時代を経た道具の美しさを見ることができました。
【西田木工所へ】
春慶会館を出た後は、木地師・塗師それぞれの製作現場へ移動。
まず木地師である西田木工所の西田さんのお宅へお邪魔するとそこには、飛騨春慶の木地がそこかしこに並べられ、良い木の香りに包まれていました。
西田さんは曲げものを得意とされ、継ぎ目に差し込む桜表皮のベルトもご自分で加工して、あっという間に木地を作っていきます。
西田さんは西田木工所の3代目。木地師の中で40代と一番お若く、活躍されています。
(詳しくはTHE COVER NIPPONオンラインマガジンのインタビュー記事をご覧下さい。)
【瀧村漆工房へ】
次に、飛騨春慶作家の瀧村弘美さん(瀧村漆工房)のもとに伺いました。
瀧村さんの飛騨春慶は、通常艶出しのために漆に少量まぜる油を使用しないマットな質感が特徴で、使ううちに手の脂によって増す艶が楽しめます。
滝村弘美さんの息子さんは、木地師の西田さん同様40代。親から子への技術の継承されている様を目の当たりにでき、意義のある2軒の訪問となりました。
塗師は、その名の通り木地師の仕上げた木地に漆を塗っていきます。
塗師自ら塗布する漆を生漆から何度も温め漉して上塗り用に仕上げるので、漆の採取の方法からお話しは始まりました。
また、飛騨春慶の見極めについてのお話、人が漆を使うようになったのは、蜂が漆で巣を作ることから学んだのではないかなどの、瀧村さんの日々の塗りの仕事から発見して発想したご意見といった、興味深いお話に耳を傾けます。
漆器の良し悪しについても瀧村さんは触れており、木地師の完成度の高さはもちろんのこと、漆の使用量がそれを決定付けるとのこと。
例えば、輪島であれば、最後上塗りまでにどれだけ厚く塗るかでその品質が決まりますし、飛騨春慶は木目を生かす漆器のため、下地段階で木地にどれだけ漆を染み込ませるかにかかっているようです。
【渋草焼 芳国舎(工房)へ】
あまり馴染みのない名前で、そもそも飛騨高山で焼き物があったことにすら首を傾げる方も多いかもしれません。
渋草焼は、現在も昔のままの場所で作られており、その場所が「しぶくさ」という地名により渋草焼となりました。
天保十二年(一八四一年)、江戸末期のころ飛騨高山で陶業の自給自足を図り、神岡巣山村に良質の陶石(渋草陶石)が見つかったことで、加賀九谷より職人を招いて磁器の製造が始まりました。
神岡巣山村で発見された渋草陶石
昔の登り窯跡
南京赤絵写し、古染写し赤絵もの、九谷写しなど、飛騨九谷と呼ばれる優品を作り出した渋草焼ですが、幕末の混乱によりその製造は縮小、明治十一年に再興されるまで細々と経営されていたのです。
明治以降の技術向上のための弛まぬ努力が、渋草調といわれる独特の意匠となったことから、現在も当時の精神や技術の保持に努め昔と変わらぬ様、手造り、手描きで製作を続けています。
【渋草焼 芳国舎(直営店舗)】
先ほど実際に制作現場を見たモノが商品として並んでいます。
今回のモノづくりの旅でまわったどの現場でも言えることですが、モノづくりの価値を見出し納得できた後のお買い物は、本当に楽しいです。
<渋草焼 芳国舎> http://www.shibukusa.co.jp/
最後になりましたが、NBM講座初の試みにご参加いただいた皆様、我々の訪問を快く受け入れてくださった地元企業、店舗の皆様、各方面でご尽力いただいた岐阜県の職員の皆様に心から御礼申し上げます。
ありがとうございました。